
(1) 憲法96条先行改正論は立憲主義を無にするもの
自民党改憲草案が公表されて早1年が経ち,今般の参議院選挙の結果次第では,憲法改正が政治日程に登ろうとしています。自民党草案に対する疑問と懸念は,別稿で論及した通りですが(自民党憲法改正案に対する疑問と懸念),近時日本国憲法96条(改正条項)の先行改正論が勢いを増しているように思うので,改めてこの点に対する異議を述べておきたいと思います。
私はもともと憲法96条改正には慎重な検討をすべきとの立場ですが,それは他の条項の改正も現行96条の改正手続によって同時に行われることを念頭に置いてのものでした。これに対して,現時点で議論されているのは,その他の条項の改正を視野に入れて,まず96条を改正して改正のハードルを下げようとするものであり,次なる改正を容易にするために憲法の歯止めを空洞化してしまおうというものです。このような96条先行改正論は,まさに立憲主義を無にするものであり,それ自体およそ支持することはできません。
この点,憲法96条は,憲法改正に当たっては各議院の総議員の3分の2以上の賛成による発議と国民投票での過半数の賛成を要件としており,法律の改正手続よりも重い手続となっています(いわゆる硬性憲法)。硬性憲法の下においては,両議院の過半数をそれぞれ有する政党といえども,自らの党派の意向のみによっては憲法改正を発議できないため,国家権力の濫用,暴走を憲法の枠をもって歯止めをかけるという立憲主義の根本的要請が,最も達成されることが期待されます。
もとより,硬性が行き過ぎて憲法改正がおよそ困難となれば,かえって強引な憲法解釈変更により憲法の空洞化が進行すること(いわゆる解釈改憲)が懸念され,結果的に憲法の規範性と国家権力への拘束性が失われてしまいかねないことから,どの程度の硬性が適切かつ妥当かが比較憲法的にも議論される必要があります。それ故に私は,その点を慎重に検討する必要があると説く訳です。
その際,選挙制度のあり方もまた重要な意味を持ちます。例えば,衆議院においては,小選挙区の導入によって得票数の割合以上に議席を獲得することができるようになり,政党間の議席の振れ幅が大きくなっていることもあって,従前に比して議席の過半数を獲得しやすい状況になっていることに留意する必要があります。
(2) 現代社会には立憲主義は不要なのか?
ところで,自民党の憲法改正案起草に関わった議員は立憲主義を軽視する発言を行い,国家権力の歯止めとしての憲法の機能を忘れ,むしろ国民に義務を課すことに力点を置いているように見受けられます。そもそも憲法とは,他の一切の法とは異なり,国家や地方公共団体を名宛人として,その権限の淵源となると同時に,その行使を制限するものです。現行憲法においても,「検閲はこれをしてはならない」とある条項は,国等は検閲をしてはならない,という意味になる訳ですから,憲法で国民に義務を課す発想(自民党改憲草案3条2項(国民の国旗・国歌尊重義務),102条1項(国民の憲法尊重擁護義務)等)は立憲主義とは異質の思想に依拠するものというべきです。
立憲主義を軽視する方々は,「インターネットの情報交換で革命が起きる時代,国家権力の濫用や独裁などあり得ない」といいますが,失われた年金が永年問題化されなかった事実や,原発事故の際の政府による情報操作を観ても容易に理解できるように,一般に国から国民への情報提供がどれだけ十分かは甚だ疑問であり,権力者の権力濫用の虞は常に意識してそのための歯止めの発想を持たなければならないというべきです。権力者が権力を濫用してきた歴史は,ここで繰り返す必要もないほどであり,人の本質は時代を超えて何も変わらないのですから,現代においても立憲主義は憲法のあり方の根幹をなすものというべきです。
この点は,我が国の歴史を振り返っても強調すべきことと思います。戦前の我が国は,いったん大正デモクラシーを経験し,政党政治が花開いた後に,軍部の台頭を招きました。そもそも大日本帝國憲法は権力濫用を阻止するための権力分割,抑制均衡という発想が不十分であり,権力濫用の阻止は理念上は主権者たる天皇に任されつつ,実際にはむしろ元老等の超憲法的かつ超越的な影響力によって支えられていました。これはもはや法の支配とはいえず,むしろ人の支配の最たるものです。人の支配は元老が年老いたり,亡くなるだけで容易に崩壊するものであり,実際軍部の台頭を阻止することはできませんでした。最後の元老西園寺公望の死後まもなく太平洋戦争に突入したのは皮肉な事実です。より高次の正義の法による支配という法の支配の理念を実定法レベルで具現化する憲法をもって,権力濫用を阻止することが重要である所以です。
軍隊というものは,実力がある故にそれを濫用的に行使したい欲望を生みやすいものです。満州事変においては,関東軍が満鉄の爆破を自作自演し(東京裁判の認定),正当防衛の名の下に軍事行動が行われました。ナチスドイツにおいても,ポーランド侵攻は正当防衛を騙って行われました。軍事力の行使に対する立憲的な統制が不可欠であることは自明の理というべきであり,憲法9条改正を視野に入れるのであれば,根本理念である立憲主義を軽視するようなことがあってはならないというべきなのです。
(3) 民主制のあり方と人権保障の重要性
ところで,私は立憲的改憲論者であり,憲法9条も軍隊の海外派遣を国会の個別決議に基づいて可能ならしめるように改憲すべきと考える者ですが,その際民主制のあり方を同時に慎重に見直していかなければ,多数決の名の下に人権侵害を引き起こしかねないと懸念しています。満州事変においては,軍部が勝手に暴走したという訳ではなく,関東大震災や世界大恐慌以降の不景気の中で,遅れてきた帝国主義国家日本が外にさらなる植民地を獲得することを国民の多くが期待し,マスコミもこれを煽った結果,軍部が暴走するに至りました。当時は第一次大戦後の民族自決の流れの中で,植民地を有する先進国はその独立運動を阻止するために賢明になっていた時代であり,持たざる国に分け前を与えるような寛容さは弱肉強食の国際社会には存在しない訳ですから,強引な軍事介入が国際社会の強い批判を招きうることは容易に想像し得たはずでした。国民が国際社会の趨勢をどれだけ理解していたかは疑問であり,マスコミの勇ましい論調も相まって,戦争賛美が勢いを増していったのです。このような経緯に照らせば,たとえ立派な立憲主義憲法があったとしても,それだけで権力濫用を阻止し得るものではないことは明らかです。そこでは,国民が十分な情報提供を受けつつ慎重な判断を心懸け,マスコミも責任ある冷静な情報提供と分析評価を行うことが重要であることはいうまでもありません。
民主制のあり方という点では,民主的な多数決をもっても奪うことのできない少数者の権利の保障,すなわち人権保障もまた非常に重要といえます。自民党改憲草案の解説によれば天賦人権思想は採らないとのことであり,あたかも我が国は我が国の伝統によって国民の権利を保障すると言いたげですが,大日本帝國憲法における臣民の権利は法律で保障されたに過ぎず,法律で徴兵され,特攻隊に志願しない者を非国民呼ばわりする気運の中で,特攻していった多くの若者達の軌跡を顧みるとき,同じ過ちは決して繰り返してはならないとの思いを強くします。国会における多数派がいかようにも策定できる法律をもってしては制限することのできない人権保障を憲法で実現することの意義が,軍事力を正面から容認するに当たって改めて再認識される必要があると思います。天賦人権思想は何もキリスト教と密接不可分なものではありません。むしろ,国家権力が存在する以前から人は至高の万能な人格を有していたというに過ぎませんから,それは身分制社会を排斥するあらゆる思想,文化と両立するものです。これを否定するというのであれば,それは身分制社会を再び構築するということにでもなるのでしょうが,何故に明治維新において我が国は身分制社会を放逐したかを考えればそれがいかにナンセンスな議論かはいうまでもないでしょう。殿様だけがよい暮らしをする身分制社会は,結局生産性に乏しく,国民総生産を上げ国際競争力を強めることはできないことは,当時の日本人にも自明のこととして理解されていました。人間が人間らしく暮らさない限り国は繁栄しないのです。人間を特攻兵器にするような発想では戦争には勝てないのです。この点,天皇を主権者とする大日本帝國憲法は,いかに天皇が立憲君主たらんとしても,統帥権の独立の名の下に軍部の暴走を止めることができませんでした。天皇を神々しい主権者にすれば,その威を借りる人達には批判の矛先が向けられなくなります。神権天皇制国家はそもそも明治維新によって実現したものであり,それまでの幕府や諸藩の権力を一掃して薩長による中央集権国家を構築するための論理であったことに照らしても,大日本帝國憲法復古主義の背後には,独裁的に権力行使を図らんとする政治家の野心が見え隠れしているのです。人権の天賦性に依拠した人権保障が重要であるというべきです。
この点,身勝手な行動を人権で正当化するような輩を挙げて「行き過ぎた人権思想」を説く論者がいますが,それは人権保障の行き過ぎなどではなく,むしろ人権を誤解し濫用する国民が存在するというに過ぎません。人権が公共の福祉という限界を持つものであること,そこでは対立する価値,法益等の利益衡量が行われつつも,人格の本質的部分を侵すような結論はあってはならないことを国民がよく理解すればそれで済むことですから,むしろ憲法教育の充実を訴えるべきなのです。
(4) 最後に
このように法の支配と立憲主義,そして天賦人権思想に依拠する人権保障こそが,国家権力に対する拘束規範たるべき憲法の最重要要素というべきであり,それを放棄するかの議論が国会で行われるような事態は断固として容認することができません。最後になりますが,先日ある宴席で弁護士仲間から指摘されて思い出させられたある言葉をここに引用したいと思います。日弁連会長を務められた平山正剛先生が,まさに会長選挙に出馬せんとされていた2005年頃,若手との意見交換の会合がありました。その席で私はイラク戦争を引き合いに立憲的改憲の上で国会での論戦をすべきではと尋ねたのですが,平山先生は「法の支配の意義を理解しない政治家が多い以上,改憲は時期尚早である。」とお話になっておられました。この言をいわれては,それ以上の論争にはならなかったのを記憶しています。国民の民度を上げることはもちろんのこと,国家権力を直接的に掌握すべき政治家の意識を上げ,自らに対する縛りを自明のこととしてもらうまで,確かに憲法改正は危険極まりないというほかありません。いわんや,憲法改正のハードルを下げて,後はいかようにも改正できるようにしようとする発想は,およそ政治家に自由な権力行使を保障するものでしかなく,およそ容認することはできません。政治家は改正のハードルを下げる前に軍事力行使の必要性を正面から論じ,権力濫用阻止に力点を置いた立憲的改憲を訴えるべきです。法の支配を理解する政治家による立憲的改憲が実現する日が来ることを強く期待しています。
弁護士 田島正広
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自民党改憲草案が公表されて早1年が経ち,今般の参議院選挙の結果次第では,憲法改正が政治日程に登ろうとしています。自民党草案に対する疑問と懸念は,別稿で論及した通りですが(自民党憲法改正案に対する疑問と懸念),近時日本国憲法96条(改正条項)の先行改正論が勢いを増しているように思うので,改めてこの点に対する異議を述べておきたいと思います。
私はもともと憲法96条改正には慎重な検討をすべきとの立場ですが,それは他の条項の改正も現行96条の改正手続によって同時に行われることを念頭に置いてのものでした。これに対して,現時点で議論されているのは,その他の条項の改正を視野に入れて,まず96条を改正して改正のハードルを下げようとするものであり,次なる改正を容易にするために憲法の歯止めを空洞化してしまおうというものです。このような96条先行改正論は,まさに立憲主義を無にするものであり,それ自体およそ支持することはできません。
この点,憲法96条は,憲法改正に当たっては各議院の総議員の3分の2以上の賛成による発議と国民投票での過半数の賛成を要件としており,法律の改正手続よりも重い手続となっています(いわゆる硬性憲法)。硬性憲法の下においては,両議院の過半数をそれぞれ有する政党といえども,自らの党派の意向のみによっては憲法改正を発議できないため,国家権力の濫用,暴走を憲法の枠をもって歯止めをかけるという立憲主義の根本的要請が,最も達成されることが期待されます。
もとより,硬性が行き過ぎて憲法改正がおよそ困難となれば,かえって強引な憲法解釈変更により憲法の空洞化が進行すること(いわゆる解釈改憲)が懸念され,結果的に憲法の規範性と国家権力への拘束性が失われてしまいかねないことから,どの程度の硬性が適切かつ妥当かが比較憲法的にも議論される必要があります。それ故に私は,その点を慎重に検討する必要があると説く訳です。
その際,選挙制度のあり方もまた重要な意味を持ちます。例えば,衆議院においては,小選挙区の導入によって得票数の割合以上に議席を獲得することができるようになり,政党間の議席の振れ幅が大きくなっていることもあって,従前に比して議席の過半数を獲得しやすい状況になっていることに留意する必要があります。
(2) 現代社会には立憲主義は不要なのか?
ところで,自民党の憲法改正案起草に関わった議員は立憲主義を軽視する発言を行い,国家権力の歯止めとしての憲法の機能を忘れ,むしろ国民に義務を課すことに力点を置いているように見受けられます。そもそも憲法とは,他の一切の法とは異なり,国家や地方公共団体を名宛人として,その権限の淵源となると同時に,その行使を制限するものです。現行憲法においても,「検閲はこれをしてはならない」とある条項は,国等は検閲をしてはならない,という意味になる訳ですから,憲法で国民に義務を課す発想(自民党改憲草案3条2項(国民の国旗・国歌尊重義務),102条1項(国民の憲法尊重擁護義務)等)は立憲主義とは異質の思想に依拠するものというべきです。
立憲主義を軽視する方々は,「インターネットの情報交換で革命が起きる時代,国家権力の濫用や独裁などあり得ない」といいますが,失われた年金が永年問題化されなかった事実や,原発事故の際の政府による情報操作を観ても容易に理解できるように,一般に国から国民への情報提供がどれだけ十分かは甚だ疑問であり,権力者の権力濫用の虞は常に意識してそのための歯止めの発想を持たなければならないというべきです。権力者が権力を濫用してきた歴史は,ここで繰り返す必要もないほどであり,人の本質は時代を超えて何も変わらないのですから,現代においても立憲主義は憲法のあり方の根幹をなすものというべきです。
この点は,我が国の歴史を振り返っても強調すべきことと思います。戦前の我が国は,いったん大正デモクラシーを経験し,政党政治が花開いた後に,軍部の台頭を招きました。そもそも大日本帝國憲法は権力濫用を阻止するための権力分割,抑制均衡という発想が不十分であり,権力濫用の阻止は理念上は主権者たる天皇に任されつつ,実際にはむしろ元老等の超憲法的かつ超越的な影響力によって支えられていました。これはもはや法の支配とはいえず,むしろ人の支配の最たるものです。人の支配は元老が年老いたり,亡くなるだけで容易に崩壊するものであり,実際軍部の台頭を阻止することはできませんでした。最後の元老西園寺公望の死後まもなく太平洋戦争に突入したのは皮肉な事実です。より高次の正義の法による支配という法の支配の理念を実定法レベルで具現化する憲法をもって,権力濫用を阻止することが重要である所以です。
軍隊というものは,実力がある故にそれを濫用的に行使したい欲望を生みやすいものです。満州事変においては,関東軍が満鉄の爆破を自作自演し(東京裁判の認定),正当防衛の名の下に軍事行動が行われました。ナチスドイツにおいても,ポーランド侵攻は正当防衛を騙って行われました。軍事力の行使に対する立憲的な統制が不可欠であることは自明の理というべきであり,憲法9条改正を視野に入れるのであれば,根本理念である立憲主義を軽視するようなことがあってはならないというべきなのです。
(3) 民主制のあり方と人権保障の重要性
ところで,私は立憲的改憲論者であり,憲法9条も軍隊の海外派遣を国会の個別決議に基づいて可能ならしめるように改憲すべきと考える者ですが,その際民主制のあり方を同時に慎重に見直していかなければ,多数決の名の下に人権侵害を引き起こしかねないと懸念しています。満州事変においては,軍部が勝手に暴走したという訳ではなく,関東大震災や世界大恐慌以降の不景気の中で,遅れてきた帝国主義国家日本が外にさらなる植民地を獲得することを国民の多くが期待し,マスコミもこれを煽った結果,軍部が暴走するに至りました。当時は第一次大戦後の民族自決の流れの中で,植民地を有する先進国はその独立運動を阻止するために賢明になっていた時代であり,持たざる国に分け前を与えるような寛容さは弱肉強食の国際社会には存在しない訳ですから,強引な軍事介入が国際社会の強い批判を招きうることは容易に想像し得たはずでした。国民が国際社会の趨勢をどれだけ理解していたかは疑問であり,マスコミの勇ましい論調も相まって,戦争賛美が勢いを増していったのです。このような経緯に照らせば,たとえ立派な立憲主義憲法があったとしても,それだけで権力濫用を阻止し得るものではないことは明らかです。そこでは,国民が十分な情報提供を受けつつ慎重な判断を心懸け,マスコミも責任ある冷静な情報提供と分析評価を行うことが重要であることはいうまでもありません。
民主制のあり方という点では,民主的な多数決をもっても奪うことのできない少数者の権利の保障,すなわち人権保障もまた非常に重要といえます。自民党改憲草案の解説によれば天賦人権思想は採らないとのことであり,あたかも我が国は我が国の伝統によって国民の権利を保障すると言いたげですが,大日本帝國憲法における臣民の権利は法律で保障されたに過ぎず,法律で徴兵され,特攻隊に志願しない者を非国民呼ばわりする気運の中で,特攻していった多くの若者達の軌跡を顧みるとき,同じ過ちは決して繰り返してはならないとの思いを強くします。国会における多数派がいかようにも策定できる法律をもってしては制限することのできない人権保障を憲法で実現することの意義が,軍事力を正面から容認するに当たって改めて再認識される必要があると思います。天賦人権思想は何もキリスト教と密接不可分なものではありません。むしろ,国家権力が存在する以前から人は至高の万能な人格を有していたというに過ぎませんから,それは身分制社会を排斥するあらゆる思想,文化と両立するものです。これを否定するというのであれば,それは身分制社会を再び構築するということにでもなるのでしょうが,何故に明治維新において我が国は身分制社会を放逐したかを考えればそれがいかにナンセンスな議論かはいうまでもないでしょう。殿様だけがよい暮らしをする身分制社会は,結局生産性に乏しく,国民総生産を上げ国際競争力を強めることはできないことは,当時の日本人にも自明のこととして理解されていました。人間が人間らしく暮らさない限り国は繁栄しないのです。人間を特攻兵器にするような発想では戦争には勝てないのです。この点,天皇を主権者とする大日本帝國憲法は,いかに天皇が立憲君主たらんとしても,統帥権の独立の名の下に軍部の暴走を止めることができませんでした。天皇を神々しい主権者にすれば,その威を借りる人達には批判の矛先が向けられなくなります。神権天皇制国家はそもそも明治維新によって実現したものであり,それまでの幕府や諸藩の権力を一掃して薩長による中央集権国家を構築するための論理であったことに照らしても,大日本帝國憲法復古主義の背後には,独裁的に権力行使を図らんとする政治家の野心が見え隠れしているのです。人権の天賦性に依拠した人権保障が重要であるというべきです。
この点,身勝手な行動を人権で正当化するような輩を挙げて「行き過ぎた人権思想」を説く論者がいますが,それは人権保障の行き過ぎなどではなく,むしろ人権を誤解し濫用する国民が存在するというに過ぎません。人権が公共の福祉という限界を持つものであること,そこでは対立する価値,法益等の利益衡量が行われつつも,人格の本質的部分を侵すような結論はあってはならないことを国民がよく理解すればそれで済むことですから,むしろ憲法教育の充実を訴えるべきなのです。
(4) 最後に
このように法の支配と立憲主義,そして天賦人権思想に依拠する人権保障こそが,国家権力に対する拘束規範たるべき憲法の最重要要素というべきであり,それを放棄するかの議論が国会で行われるような事態は断固として容認することができません。最後になりますが,先日ある宴席で弁護士仲間から指摘されて思い出させられたある言葉をここに引用したいと思います。日弁連会長を務められた平山正剛先生が,まさに会長選挙に出馬せんとされていた2005年頃,若手との意見交換の会合がありました。その席で私はイラク戦争を引き合いに立憲的改憲の上で国会での論戦をすべきではと尋ねたのですが,平山先生は「法の支配の意義を理解しない政治家が多い以上,改憲は時期尚早である。」とお話になっておられました。この言をいわれては,それ以上の論争にはならなかったのを記憶しています。国民の民度を上げることはもちろんのこと,国家権力を直接的に掌握すべき政治家の意識を上げ,自らに対する縛りを自明のこととしてもらうまで,確かに憲法改正は危険極まりないというほかありません。いわんや,憲法改正のハードルを下げて,後はいかようにも改正できるようにしようとする発想は,およそ政治家に自由な権力行使を保障するものでしかなく,およそ容認することはできません。政治家は改正のハードルを下げる前に軍事力行使の必要性を正面から論じ,権力濫用阻止に力点を置いた立憲的改憲を訴えるべきです。法の支配を理解する政治家による立憲的改憲が実現する日が来ることを強く期待しています。
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